将来は起業家として会社を設立したり、フリーランスのプロ人材になりたいと思っている人は、最初は副業からでも良いので何も迷うことなく前向きなアクションを起こすことです。
なぜなら、起業家を目指しているがどれだけの知識や経験、ノウハウを知っていたとしても最初の一歩が踏み出せない臆病な人は、何もしていない人と同じだと言えるからです。
そこで今回は、起業するために必要なことは何か?私と祖父の起業ストーリーついて解説します。
「今から20年後、君はやったことよりも、やらなかったことに大きく失望するだろう。 自分を縛っている紐をすぐに解け。 その一歩を前に踏み出せ。 そして自分の可能性を信じろ。探検せよ、夢を見ろ、そして発見を楽しむのだ。」
<マーク・トウェイン>
起業するために必要なことは、副業からでも良いのでビジネスを始め経験値を高めることです。なぜなら、ビジネス書を読んだり自己啓発にセミナーで学ぶことは大事ですが、インプットのみで終わりアウトプットが伴わないと真の自己変革は起こせないからです。
ですが、自分以外の人が目に見える形で出力を上げることに徹底し、何らかの行動やアウトプットを起こして行けば、活動のプロセス中からの様々な気付きあります。また、事業を応援してくれるサポーターや顧客となる人や会社と出会う可能性が高まります。
悩みながらも突き進んで行くことで、試行錯誤の中からの競合他社の少ない「ブルーオーシャン」が見つかり、隠れた宝の山を独占できることもあります。
日々の事業活動をフルスロットルで展開することで、机上の空論でなはく独自のポジションを発見するヒントなどに出会い、劇的な進化を遂げることが可能になります。
将来の姿は、今現在における己の行動が全ての源流になっています。世界最大の川であるアマゾン川ですら、その始まりは雨水が溜まり、山の麓のから湧き出したわずかな水滴がルーツです。
人生を変え、良い方向に好転させている人には、共通点があります。それは、物事を変える決断をし、挑戦に対して事業計画書を作り上げるだけでなく、人を惹きつけるような高いビジョンを抱き、それらを成し遂げるために自己変革を起こしている点なのです。
未来を変える一歩となる具体的な行動を今スグ起こしてますか?
<本田季伸>
■私と祖父の起業ストーリー
私自身は、1997年にサラリーマン生活に終止符を打ち、25歳でインターネットベンチャーを起業しました。尊敬する祖父が起業家であり子供の頃から経営者である祖父に憧れを抱いていたことが、アントレプレナーを目指す大きなキッカケになりました。
祖父は86歳で天寿を全うしましたが、葬儀の席には日立製作所のグループ会社の社長や日立市の市長、県議会議員、ロータリークラブに参加している経営者、取引先の関係者が3000人以上も列席していました。
見たことも無いような盛大な葬儀が執り行われ、創業経営者である祖父の偉大さを感じました。
その席で親戚から祖父は25歳で起業し、日本から満州に渡りもう一人の共同経営者とともに、当時の三井、住友、三菱など大手財閥を肩を並べるくらい巨大な鉄鋼会社を興し、「大和鉄工所」という社名で経営していたという話を聞きました。
その規模としては、満州で(現在の中国東北部)で数千人の従業員の雇用を生み出していました。
ですが、アメリカとの戦争が勃発した結果、圧倒的な軍事力に勝るアメリカの敗戦国になってしまったのです。
このことで日本は満州から撤退することになり、それまで積み上げてきた鉄鋼会社と工場、機械設備、土地などを中国に残し、全財産を没収されました。更に終戦後の動乱に乗じて、それまで争っていなかったソ連が100万という大群で満州に侵攻してきました。
「大和鉄工所」の社長であった祖父は、日本政府からの依頼により戦争の武器の原料となる鉄材を製造していたと、ソ連から戦犯扱いされたのです。
そして、軍人でなく民間人であったにも関わらず、ソ連軍に戦争の捕虜として捕まり、極寒の地「シベリアに抑留」されてしまったのです。このことで、開墾を目的とした森林伐採など過酷な強制労働を課せられる中で、6万人近くの日本人が寒さと飢えで亡くなったそうです。
■「シベリア抑留」とは?
「シベリア抑留」とは、第二次世界大戦の終戦後、日本軍による武装解除がされた後であったにも関わらず、ソビエト連邦(ソ連)の軍事侵攻によって、日本軍が捕虜として主にシベリアなどへ労働力として移送隔離されたものです。
長期にわたる抑留生活と奴隷的な「強制労働」を課せられたことにより、途方もない数の日本人に被害が出ました。
「ソ連対日参戦」と呼ばれており、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、「満州帝国」のあった日本領朝鮮半島北部に「軍事侵攻」したものです。
ソ連によって戦後に抑留された日本人は、約57万5千人に上りました。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡しました。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人になります。
その後、何とか祖母と母、母の弟たちは祖母の親戚がいた九州の博多に帰ってきました。しかしながら、祖父の消息は何年も音沙汰がなく不明で、生きているかどうか誰も分からない状況でした。
ですが、3年以上の長い歳月が流れたある日、ソ連から手紙が届きました。一抹の不安を感じながらも祖母がその手紙を紐解くと、俳句のような言い回しで、「家族に会うことを夢見て、生きている!」という内容ものだったのです。
祖父の生存を固く信じていた私の母は、子供ながらにその手紙を見て飛び跳ねるくらい大喜びしたそうです。そして、祖父は奇跡的に元気な姿で、無事に故郷の日本まで帰還することが出来たのです。
祖父が無事に戻ることができた大きな要因は、「一芸に秀でる技術スキル」を身につけていたからです。
元々エンジニアだったので鉄の加工技術を習得しており、ソ連が製鉄技術や鉄の加工のノウハウを欲しがったのです。
また、起業家としてのどんなことにも耐えしのぐ不屈のマインドを持っていました。そして、最終的に家族の元にどうしても生きて帰りたいという強い想いが、祖父の命を救ったのです。
そこから、裸一貫で日本に戻り、改めて何も無いところから複数の会社を創業し新規事業に挑戦しました。終戦後の混乱で大変な苦労があったものの家族が一致団結し、決して諦めることはありませんでした。
その後、祖父の実家があり兄弟たちのいる茨城県日立市に移り住みました。日立市は、日立製作所の発祥の地であり、日立グループが2000社ある企業城下町になっいています。
日立市で新たに「HITACHI」のネームプレート製造する銘板加工メーカーをゼロから興し、努力の末に再び成功を掴み取りました。従業員の規模は100人程度ですが、創業70年近くで技術力の高い安定企業になります。
この波乱万丈のストーリーを知ったことが、祖父と同じ25歳という年齢で独立する決意を一気に駆り立てたのです。私が起業家としての今の自分があるのも祖父の生き様と両親や兄弟、親戚たちの支えのお陰です。
そして、起業家としての困難にも挫けず何事にも挑戦する不屈の精神と、連続起業家としての魂を祖父から隔世遺伝的に受け継ぐことが出来たからだと心から感謝しています。
■最後に
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